進化論的観点と社会科学の地平

※ここで述べている生物学の知識は、自己という存在を意識する自己について考える実存主義に関する議論を行うための前提として述べることを目的としています。言い換えますと、思考について考える前の共通認識としての知識ということです。

生物学におけるいわゆる分類は日々その形を変え、昔まで常識だった分類が現在では使われていない場合が多くあります。分類の方法は古典的な手法の影響を大きく受けており、生物学における分類法は、ある意味では現在の分類法も大きく歪んでいます。

もっとも顕著な例として魚類というカテゴリさえ現在は消滅しています。実際の日常言語的な用法では魚という分類がなくなるわけではありませんが、あくまで学会における正式なカテゴリとしての魚類という大きな枠組みは廃止されました。

※分類の歪みの発生原因の一つの例として鳥綱は獣脚亜目よりも進化の分類上では下部のカテゴリに属していなければなりませんが、鳥綱はクラスであり、獣脚亜目はサブオーダーとなり、順列が逆転します。このような逆転は実際に頻繁にみられるもので、事実このような分類は正しい順列であるものよりも便利でもあります。

現在の生物分類は従来の界による分類から一つ格上げされたドメインによる三ドメイン説が一般的であり、生物は真正細菌ドメイン古細菌ドメイン、真核生物ドメインの三つに分かれています。ドメインの下は界(キングダム)・門(ファイラム、ディビジョン)・綱(クラス)・目(オーダー)・科(ファミリー)・属(ジーナス)・種(スピーシーズ)と分かれており、それぞれに上(スーパー)・亜(サブ)・下(インフラ)という接頭辞を用いて更に細分化された分類が置かれることがあります。

生物としてのヒトは分類上現在、キングダムが動物界、ファイラムが脊索動物門、クラスが哺乳綱、オーダーが霊長目、ファミリーがヒト科、ジーナスがヒト属、スピーシーズがヒトという種になります。ヒトにも更に細分化された分類方法である上・亜・下という接頭辞を用いた分類もありますがここでは省略します。

真核生物のうち動物界に属する生物は数多く存在しますが、脊椎動物に近い無脊椎動物にはどのようなものがいるのでしょう。ヒトを含めた脊索動物のスーパーファイラム(上門)は、後口動物と呼ばれます。後口動物というのがいるのだから前口動物もいるだろうと考える人もいますが、対立概念として生まれただけあって存在しています。

動物の多くの種は胚の段階で原口または原腸陥入というものが発生します。受精してから細胞分裂を繰り返した後に、体の部位が形成されるなかで最初に形成されるのが原口もしくは原腸陥入です。

この原口または原腸陥入はやがて貫通しますが、この原口がそのまま口としての機能を有することになるのが前口動物です。それとは逆に原口が口ではなく肛門の機能を有することになるのが後口動物です。前口動物を旧口動物、後口動物を新口動物ということもあります。

前口動物には、イカやタコなどの軟体動物と甲殻類や昆虫といった節足動物が含まれます。後口動物にはヒトなどの脊索動物のほかにヒトデやウニといった棘皮動物が含まれます。生物学の分類上ではヒトはイカやタコ、カニやアリなどと比べるとヒトデやウニに近いということになります。

脊索動物と脊椎動物という二種類の言葉が使われていたことに気がついていたでしょうか。脊索動物門と脊椎動物亜門は異なるカテゴリであり、脊椎動物というサブファイラムは脊索動物というファイラムの下部カテゴリに属しています。

脊椎動物ではない脊索動物にはホヤなどが分類されますが、ヒトはヒトデやウニよりもさらにホヤに近いということになります。ホヤは実際に海で見ることができますが、スーパーなどでも目にすることができます。非常に静的なホヤがより動的な動物よりも脊椎動物に近いという点は興味深いですが、ホヤの幼生は遊泳性をもっており、そこに脊椎動物との類似性をみることができるかもしれません。

前口動物と後口動物では、神経系の登場以前に分化していることがわかります。軟体動物や節足動物脊椎動物の神経系は類似的な側面を持っていますが、その発生の系統は異なります。これは視覚についても言えます。軟体動物のイカやタコなどの眼と脊椎動物の眼は比較的よく似ていますが、系統はまったく異なります。このように全く別の系統を辿っていながら類似的な進化を遂げることを収斂進化といいます。

ちなみにイカやタコの眼には脊椎動物の眼に存在する盲点(スコトーマ)が存在しません。これは別の系統を辿って進化したことを示す証拠の一つとして考えることができます。

上門の前口動物と後口動物の分化、下門の頭索動物や後索動物と脊椎動の分化は大きな時代区分ですが、全球凍結のあったクライオジェニアンからエディアカラ紀、カンブリア爆発のあったカンブリア紀にかけての期間に分化したと思われます。特に地球全土が氷で覆われていた時代、いわゆる全球凍結後およそ6億年前のエディアカラ紀が現在の動物の基礎となる分類上の分化が花開いた時代であったと思われます。

----------------------------------------------------------------

パソコンやスマートフォンなどを通じて、様々な情報に触れることができますが、これらの情報は人工知能によって書かれた情報でない場合、基本的には人間によって書かれた情報です。

このような情報を発信することができ、またこのような情報を受信することができるというのは人間の大きな特徴です。ただし、情報という概念を広い意味でとらえると、多くの動物が実は情報を発信したり、受信したりしながら、相互に進化してきたという表現も一応は成り立つと思います。

私たち人類および現在の脊椎動物の最初の祖先にあたる脊椎動物が誕生したのは今からおよそ5億年くらい前のカンブリア紀だと言われています。カンブリア紀の特徴は、エディアカラ紀に誕生した肉眼で確認できる大きさの動物たちが、急激に多様な形態に進化した点にあります。このような急激に多様化した現象をカンブリア爆発といいます。

カンブリア爆発がなぜ起こったのかについては諸説ありますが、その原因が眼が誕生し発達したことが切っ掛けとなったという光スイッチ説が有力です。独自の進化を遂げた多くの生物がそれぞれ独自に眼というものを手に入れます。

前口動物の軟体動物は単眼を手に入れ、一方で節足動物は単眼のほかに複眼を手に入れるものも現れました。カンブリア紀における複眼を持つ節足動物の代表的なものに三葉虫がいます。単眼の生き物の中にはやがてピンホール型から更に発展させてカメラ眼を手に入れた後口動物である脊椎動物や前口動物であるイカやタコなどの軟体動物が登場します。

単眼を例にとると、眼ははじめ光を受容する細胞が皮膚に登場し、それがお椀型になって光を多角的に受容するようになります。やがて、それがピンホール型からカメラ眼に発達します。チャールズ・ダーウィンは『種の起源』において、眼の複雑な構造を前にして、それを進化論では説明できない要素として率直に認めました。しかし肉眼で確認できる大きさの多細胞生物である動物が出現してからそれほど長い年月を待たずに眼が誕生しました。

体の表面からできた体の部位は、眼以外にも、口から肛門にかけての管から、神経に至るまで非常に多く存在します。脊椎動物に欠かせない組織である神経も元を辿れば体の表面に存在した組織でした。神経板とよばれるプレート上のものに神経溝とよばれる溝ができ、やがて体内に取り込まれ神経管になります。

外からの刺激に呼応して表面から組織が生まれ、体内に取り込まれるというのは、どこかしら国家構造において類比されそうですが、いずれにせよ眼も腸も神経も体内で突然発生したものではないという生物学的な感覚を身に着けることは面白いかもしれません。

こうして体の表面に存在した神経板から誕生した神経管がやがて高度に発達した脳と脊髄からなる神経系(ナーバス・システム)として非常に重要な役割を担ってきます。神経系が誕生したのがエディアカラ紀からなのかカンブリア紀からなのか、あるいはクライオジェニアンなのかは定かではありませんが、神経系が形成されるのも比較的に短い期間であっただろうと思います。

神経系が発達したのは、外敵の存在が前提となっていると思いますが、多細胞生物という共通するDNAを持った細胞の連合組織は、カンブリア紀以降も延々と弱肉強食の世界を戦い抜いていくことになります。

この後、本題となるヒトの脳組織についての考察に移行したいと思います。

----------------------------------------------------------------

古生代カンブリア紀におけるヒトの直接的な先祖または近縁な種とされる動物は幾種類か存在します。カナダのブリティッシュコロンビア州ロッキー山脈で発見されたカンブリア紀の生物群をバージェス動物群またはバージェス頁岩動物群と呼ばれる生物種の中のピカイアという生物が、20世紀末にこの時代におけるヒトの祖先またはその近縁の種ではないかと言われてきました。

頁岩とは堆積岩の一種でハンマーなどで叩くとまるで本のページがめくられるように割れるという特徴をもった岩をいいます。古生物ハンターたちによってバージェス頁岩から発見された種は数多く存在します。ピカイアは現代、脊索動物門に属し、脊椎動物亜門ではなく、その近縁の頭索動物亜門に分類されています。

世界にはカンブリア紀の動物群が発見できる地層が次々と発見されています。中国雲南省の澄江動物群(チェンジャン動物群)やグリーンランド北部のシリウス・パセット動物群などがそれにあたります。澄江動物群から発見された脊索動物のミロクンミンギア(中国では昆明魚と呼ばれます)が現在最古の魚類ではないかと言われています。

カンブリア紀の生物は現在生きている多くの生物とは似ても似つかぬ種が多数存在し、その後に続く時代と比較しても特徴的な生物種が多く見られる時代でもありました。

私が取り上げたいのは、カンブリア紀に生息していたピカイアやミロクンミンギアのような生物のまたはその近縁の種から現在のヒトに至るまでの神経系(ナーバス・システム)に関することです。

地質時代は大別すると、最古の時代である冥王代から始生代、原生代、顕生代と4つの時代(イーオン)に区分されます。そしてこの古生代カンブリア紀以降の時代を顕生代といいます。顕生代は更に古生代中生代新生代の三つの時代(エラ)に区分けされています。

古生代は更に6つの時代(ピリオド)に区分され、中生代は3つの時代に、新生代も3つの時代に区分されます。

 古生代(約5億4000万年前から約2億5000万年前)

  カンブリア紀 オルドビス紀 シルル紀

  デボン紀 石炭紀 ペルム紀

 中生代(約2億5000万年前から約6500万年前)

  三畳紀 ジュラ紀 白亜紀

 新生代(約6500万年前から現在まで)

  古第三紀 新第三紀 第四紀

人類の登場からの物語が登場する世界史や日本史などで登場する地質年代は第四紀の更新世完新世です。更新世は約260万年前から約1万年前までの時代で、完新世は約1万年前から始まった時代です。更新世のほとんどは氷河時代にあたります。アウストラロピテクスが誕生するのは更新世よりもさらに前の時代の鮮新世の時代で氷河時代よりも前に当たります。

カンブリア紀脊椎動物ないしはその近縁種の誕生から現代のヒトに至るまでのおよそ5億年の間に、神経系(ナーバス・システム)をはじめ多くの機能を獲得し進化させていきます。カンブリア紀には既に動物が眼を獲得していたことは既に述べました。この眼の誕生と爆発的なカンブリア紀の進化には、同時に激しい弱肉強食と自然淘汰が生まれていたことを意味します。

カンブリア紀から現在に至るまで、私たちに生命を繋いできた生物としての様々な種類の祖先たちこのような弱肉強食と自然淘汰を生き抜いてきたエリートたちであったということもできるかもしれません。私たちの様々な身体的な機能は、このような弱肉強食と自然淘汰から巧みに生き残るために進化してきたものです。神経系もそうですし、そこから生まれる私たちの感情も当然にこのような弱肉強食と自然淘汰の影響を受けています。

感情環という概念

ロバート・プルチックの感情環の概念を整理すると、そこには生物としての生き残りをかけて進化してきた感情の痕跡を見て取れます。感情には主に四つの性向とその対立的な要素からなる八つの基本的な感情を見出すことができます。日本では喜怒哀楽と言う表現で、人間の感情の豊かさを表現することがありますが、このような感情を体系的に分類してみせたという意味でプルチックの方法は画期的です。

またこれらの基本的な感情が更に環境の中での複雑な状況に置かれることによって、より複雑感情というものが沸き起こります。ここではその基本となる感情を見ていきましょう。

第一に何かを獲得するときに起こる反応です。食物や仲間、パートナーなどを獲得するときに沸き起こる感情ということもできるかもしれません。その感情が「喜び(ジョイ)」と「悲しみ(サッドネス)」にあたります。

第二に味方に対する反応です。群生する生き物として仲間やパートナーに対して沸き起こる感情と表現することもできるでしょう。その感情が「信頼(トラスト)」と「嫌悪(ディスガスト)」にあたります。

第三に外敵に対する反応です。外敵から身を守る手段として生物に備わっている感情ということもいえるでしょう。捕食者や群れのライバルに対する反応などが想定できます。外敵との関係によって反応が変わります。恐れは「逃避」を促し、怒りは「排除」を促します。その感情が「心配(フィアー)」と「怒り(アンガー)」にあたります。

第四に認知として表出されるものとしての反応を表します。突如として対象を察知する生物に備わった感情といえると思います。予期していなかった場合は「驚き」により、場合よっては「咄嗟」の行動を促します。予期によって、事前に「備え」の行動を促すのも身を守る方法の一つと言えます。その韓じょぐあ「驚き(サプライズ)」と「予期(アンティシペイション)」にあたります。

これらの八つの感情を更に弱くて持続的な感情または気分に近いもの、強くて衝動的な感情または激情に近いものを想定することができると思います。

「喜び」の場合はそれぞれ「平静(セレニティー)」と「快感(エクスタシー)」、「悲しみ」の場合、「憂鬱(ペンシヴネス)」と「悲嘆(グリーフ)」、「信頼」の場合、「受け入れ(アセプタンス)」と「称讃(アドミレイション)」、「嫌悪」の場合、「倦怠(ボアダム)」と「憎悪(ロージング)」という概念が割り振られています。

また「心配」の場合はそれぞれ「不安(アプリヘンション)」と「恐怖(テロ)」、「怒り」の場合、「不愉快(アノイアンス)」と「激怒(レイジ)」、「驚き」の場合、「動揺(ディストラクション)」と「驚嘆(アメイズメント)」、「予期」の場合、「関心(インテレスト)」と「警戒(ビジランス)」という概念が割り振られています。

よく自然界の動物と人の手が加えられた動物の違いがあげられますが、人の手が加えられるという状態はその個体にとって自然な状態とは言えないのかもしれませんが、考え方を変えてみると、ヒトという種は、現在文化や文明の発達などによって、ヒトとしてより自然な状態とはやや離れたライフスタイルを生きている可能性はあると思います。

進歩と対立する保守とは別のベクトルになるかもしれませんが、ジャン・ジャック・ルソーが想定した原始的な社会というものがある意味では、高度な文明化または進歩主義と対立する概念として、それなりに妥当な概念であると思います。

自然科学の領域でもしばしば現在の人類、ヒトという種にとってより適正な環境というのは原始的な社会ではないかという仮説が存在します。現在でもアマゾンの奥地やパプアニューギニアなどに住んでいる人々のライフスタイルの方がより進歩的な生活よりもいいのではないかという考え方です。

私はこの考え方には賛同しませんが、仮説としてある程度頭の中にとどめておく必要のある考え方であるとは思っています。

なかなか本題に進みませんが、どうしても避けて通れない論点ですので、敢えて本題に入るまでの前置きを長くしたいと思います。

----------------------------------------------------------------

古生代中生代新生代の時代区分を思い起こしましょう。

 古生代(約5億4000万年前から約2億5000万年前)

  カンブリア紀 オルドビス紀 シルル紀

  デボン紀 石炭紀 ペルム紀

 中生代(約2億5000万年前から約6500万年前)

  三畳紀 ジュラ紀 白亜紀

 新生代(約6500万年前から現在まで)

  古第三紀 新第三紀 第四紀

カンブリア紀に出現した最古の魚類と見なされているミロクンミンギアが登場しました。海あるいは川などを泳いでいた私たちの先祖の硬骨魚類が両生類に進化したのは古生代デボン紀になります。有名なものでアカントステガがいます。

カンブリア紀からこの両生類として生きていた時代の名残は現在でも様々な身体的な部位に残っています。分かりやすいものとしては、海を遊泳していた硬骨魚類が川を遡り、そこから陸上へ進出するにあたり、手足や肺を手に入れることになります。

ミロクンミンギアもしくはその近縁の種から進化したと思われる生物種、例えば硬骨魚類から両生類、鳥類や哺乳類などの神経系のその基礎となる構造はおおむね同じように見えますが、このことから、既にカンブリア紀には、すでに脊椎動物の神経系の構造を決定づけるような基礎構造が出来上がっていただろうことがわかります。

脳があり、そこから脊髄が伸びているという構造はカンブリア紀もしくは先カンブリア紀には出来上がっていたと考えるのが普通だと思われます。ここから身体的な構造を時代と共に変化させていきました。霊長目の出現よりもずっと先に、生物としての基本的な神経系の大まかな形は出来上がっていたと思われます。

さて、古生代から新生代と三つの時代が区分されていますが、三つの時代を分ける二つの境界には重要な意味があります。中生代は多くの恐竜が登場した時代ですが、この中生代の前の時代と後の時代の境界では、顕生代最大の二つの大量絶滅が起こっています。ペルム紀三畳紀の境界となる大量絶滅と白亜紀と古第三紀の境界となる大量絶滅を私たちの先祖となる種が生き残っています。

多くの生物種が絶滅していった二つの大量絶滅に加え、カンブリア紀以降の5億年という時代を生き残ってきた私たちの先祖たちは霊長目のチンパンジーとヒトの共通祖先からヒトという種に分化していく数百万年という短い期間に脳を急激に増大させていきました。現在の人類の脳の容量はヒト亜族のアウストラロピテクスの三倍にも達します。比率としてみるとカンブリア紀を始点として、5億分の数百万という短い期間で三倍に達しているということになります。

脳の基本的な機能というのは近縁種とそれほど大きく違わないと思われますが、その大きさと容量、処理能力というところで、ヒトは霊長目をはじめ多くの種の追随を許さないと言えると思います。ここではヒト以外の生物種、霊長目とのその違いについて言及することなどは主題に外れますので行いませんが、今後生物としての脳機能について言及していきたいと思います。

今後、私たちヒトの思考をこれまで展開してきた古生物の歴史などを踏まえたうえで考えたいと思います。私たちが社会学的な議論を行う場合、圧倒的に生物種としてのヒトという観点が圧倒的に欠いているという点は、恐らく社会科学の本流からは提出されることはないでしょう。この点を踏まえての議論だということの重要性を認識される方が多くいらっしゃるとは思いませんが、引き続き議論を重ねたいと思います。